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レビュー 立体音響ラボ バーチャル・オーディオ・リアリティの世界

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  株式会社アコースティックフィールド さん主催のACOUSTIC FIELD presents『立体音響ラボ Vol.7』立体音響ワークショップ #7 「バーチャル・オーディオ・リアリティの世界」へ行ってまいりました。 場所は東京・お茶の水駅からすぐのRittor Base。地下1階へ階段を下りていきます。 扉を開けると、薄暗い室内にPCやモニター類。  暗幕カーテンの中に3つの球体、アコースティックフィールド・久保二朗氏とスタッフが機材を調整中。  ヘッドホンを装着しタブレットPCをキーボード操作している模様。NGを前提にカメラを構えると、撮影OKが出ました。複数のアプリケーションが起動しています。  シュアーのヘッドホン。ヘッドバンドにトラッカーが装着されています。  球体はシルバーカラーのスピーカー。ワイヤレス?実はダミー。体験者に方位感覚を示すために設置しているとのこと。  暗幕カーテン内で照明を落とすとダミースピーカーだけが浮き上がってきます。体験者はこのトライアングルの真ん中に立ち、ヘッドホンとリュックサックを背負い立体音響を体験することになります。  ここで一部体験者インタビュー。 イベンター:面白かった。もし暗幕でなかったら、と想像した。 制作者:視覚を奪わないのでいい。雰囲気作りが短い時間でできる。 プログラマー:ヘッドセット使ってない。土砂降りだけど濡れていない。絵がないぶん想像する。映像と組み合わせてもいいが、単純に音だけでもいい。音だけの方が解像度があるようだ。 会社員:音が当たる。面ではなく音が降ってくる感覚。沖縄にいるような不思議な体験。インスタレーションのようなアートで使われることになれば世界観が広がるのではないか。 サウンドデザイナー:素敵。敏感さが素晴らしい。立体感のある雨がいい。映像より音だけの方が広がるのか。 サウンドデザイナー:高さ方向が出ていた。動いているか感覚があった。画面がないことが新鮮。  筆者の感想も重なりますが、冒頭は音の定位音像や質感に聴感が集中しました。やがて、近くに聞こえる音に手を伸ばすが何も無い。音がある方へ歩み振り向くが何も無い。天井から降るモノに包まれているはずが、身体には何も及ぼされていない。不思議な感覚の臨場感と没入感。  さらに、ヘッドマウントディスプレイのない状態は視野に自由さが加わり、立体音

ブログ10年目を迎えて


   ”今日は阪神・淡路大震災から15回目、追悼の日。
  近くの慰霊碑に献花してきました。
  あの日のように、空気はまだ冷たいけど、
  空を見上げると、快晴!冬の空。”(*1)

  2010年1月17日21時22分、初稿は阪神淡路大震災から15年目の日に記しました。それまでの15年間は若いなりの懸命さの裏で、一人思う日々でもありました。それは”あの時、もっと何かできなかったのだろうか”という心残り(*2)。当時出した答えは”たちあがろうとする人々を支えながら共にいること”でした。やがて十余年の歳月が経ち、自分もその一人だということを自覚し、自分なりに納得できるような心境に変化しました。それがブログ立ち上げの一つの契機です。1月17日初稿といたしました。

 ブログ開始当初は趣味全般を記述する不定期日記のような体裁でSNSとも連携を模索しました。2011年3月11日の東日本大震災、その7日後に記しています。”普通に笑い、泣き、楽しむ生活が、大切だと思います。”と。先の経験からこう思えたなら、苦しみもがいた日々は無駄ではありませんでした。5年後の2015-6年にコンセプトを音楽とオーディオへと集約し、ネームとブログ名を変更、サイトデザインもレスポンシブ対応へとリニューアルいたしました。

 たとえば、走っているとランナーズハイとは別に身体全体の細胞が喜ぶ感覚を受けることがあります。たとえば、楽器を演奏していると心地よい気分を超えて感極まることがあります。しかしいくら走っても、もはやマラソンで日本記録に並ぶことはありません。いくら楽器を学んでも、もはやショパンコンクールに出場することはできません。趣味の時間とは、日々の生活を彩り豊かにするものだと理解しています。

 先日、演奏会で音楽を聴きながらふとあることが心に浮かびました。”この席でモーツァルトを聴きながら静かに息を引き取ったなら幸せだろうな”と。不吉ではなく幸せを感じる心境でした。これは細胞が喜ぶ感覚に近いのでしょうか。彼の論語に”四十にして惑わず”という言葉がありますが、やっと不惑の年代に自分なりの解釈ができたように捉えています。音楽には度々済われてきましたが、今後も趣味として続けることができれば幸せなことです。

 しかしこの先、身体が衰えていく現実があります。今よりも音楽が聞けなくなったらどうしよう。演奏会に行けなくなったらどうしよう。そんなときは、自然の音を聞けばいい。朝は風がそよぎ、樹木の枝葉が擦れ、小鳥が囀る。昼は蝉が鳴き、風が靡く。夕刻には風が止み、烏が帰り支度を始める。きっとモーツァルトもベートーヴェンもショパンもジャズメンもロックンローラーも自然の音をモチーフに創作し、自然の風景にインスピレーションを得てステージで演奏した瞬間があるに違いありません。

 たとえ間接的だとしても、音楽家とは自然の音で繋がっています。だとしたら、自然の音を聞いて心の中で自由に音楽を鳴らすことができるはずです。辛くなったときは自分に寄り添う音を聞けばいい。抗わず現実を受け入れればいい。それで音楽やオーディオのことを書けなくなったなら、詩でも絵でも綴ればいい。そういう心積りでいることが趣味の音楽もオーディオもいつでも辞められる、拘りは少し持つが執着しない自負につながっています。たとえ生業にしていたとしても、おそらく同じことでしょう。日々をモノクロームにしては勿体ないことです。

 そして趣味は、たった一人でも知識や経験をギブアンドテイクしながらでも育み楽しめるもの。2010年以前から音楽、オーディオ、DIYの先人たちはホームページやブログを通じてこう教えてくれたように思っています。だから私もつなげよう。この初心が10年続けられたモチベーションの一つだと言えます。ただここ数年は、長期に渡り更新が滞ったり閉鎖したサイトが2010年当時より目立つ状況にあることが気がかりで残念です。何かできることはないでしょうか。

 翻って1995年1月17日、今の人生を想像だにしませんでした。2010年1月17日、ブログが10年続くとの思いには至りませんでした。人生は何が起こるかわかりません。ただ言えることは、演奏会で静かに天上する最期まで音楽を聞き続けられたなら幸せという、心の中から湧き立つ感情が確かに芽生えたということです。この静かに熱を帯びた想いが続く限り、言葉に変換する場所をこのブログにもう少しだけ置いておきたいと考えているところです。ブログ10年目を迎えて、感謝と共に。 - INORI




脚注
 *1: 2010年1月17日初稿から参照。
 *2: 発災当時の記憶をnoteに記しました。「1.17 あの日あの時の断片・震災を語り継ぐために




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